魔導書工房の見習い日誌
1話 雪車浦
クリスマスの朝だった。薄灰に曇った空から、雪が落ちてくる。細かな雪粒は真白な地面に落ちて、風に巻き上げられては視界を白くした。凍てつく空気が、外気に晒された素肌をひりひりと叩く。
東北地方の山地にある丸い湖。その一方を山に、それ以外を街に囲まれた一帯を雪車浦と呼んだ。街といっても小さなもので、人口は二千に満たない。周囲にはやはり山地が広がるので、他所からは切り離されたようなほぼ円形の町だった。
雪車浦 に電車はない。長い移動はたいてい車を使うが、それ以外なら歩くか自転車を使う。そうでなければ、中心の雪車浦湖を渡す船に乗るか公営の小さなバスを使う。冬になるとほとんどの日は昼も夜も湖に氷が張るので、移動にはバスを使うほかなくなった。
一日に数本のバスは、朝と、もう少し遅い朝、昼、夕方くらいしか走らない。そして夜になると、夜勤の運転手になって運転代行あるいはタクシーのような仕事もすることもある。だから時折、特に朝は車内に酒臭さを感じることがあった。気のせいかもしれないが、それでも千尋はなんとなく、昨日の夜ここには酔っ払いたちがいたのだと思っていた。
だが、千尋がバスの時刻を待たずに遠く離れた中学――彼はここに通っている――へと歩き出したのは、酔っ払いの残り香に嫌気が差したからではない。ただ何となく、誰かに頼りたくなかった。バスの運転手はそれが仕事だとしても、今だけは大人の世話にはなりたくないと意固地になっている。
雪の積もった道は坂もあれば、曲がり角もある。車ならまだしも、自転車を使うには危険で、冬に自転車に乗る人はほとんどいない。だから、コートのポケットに両手を突っ込んで、閉めきった襟元に鼻先まで埋めて、千尋は歩いた。
朝早くに家を出たので、学校の開く時間には着くだろう。軽い地吹雪で視界の悪い中をどこまでも歩く子供の姿は奇異に映るだろうから、少しだけ気まずい気持ちで身を隠すように進む。ふと顔を上げてはさざめく湖面を見るのを心の支えにしていた。もう少し晴れていたら、どれだけ良かったか。
どうして子供というものは、大人の目の届く中にいなければならなくて、彼らの心配という名の支配に掛かってしまうと「大丈夫」という言葉さえ信じてもらえなくなるのだろう。昨晩も千尋はこれを嫌と言うほど実感して、両親と声を荒げて言い合った。
――「千尋、学校でいじめられてるんでしょう」
強張った母の声に、顔が熱くなったのを未だに覚えている。忘れたくても忘れられなかった。母はすぐに、千尋は悪くないのだと言葉を続けた。父に相談して、学校に相談して、PTAでも対応してもらおう。気付いてあげられなくてごめん、と矢継ぎ早に言う。
確かに千尋は、中学に入るより少し前からクラスメイトたちと折り合いが悪かった。きっかけは本当に些細で、誰でもその標的になり得たような出来事で、それでも暴力を振るわれたわけではない。陰口は言われたかもしれないが、何を言われていても千尋はその中身を知らない。ただ、居ない者として扱われていたことは確かだ。
昼休み、体育館で遊ぶときに誘ってもらえなかった。千尋にだけ給食のデザートが配られなかったが、それはゴミ箱の奥底に隠されていた。ペアワークの時に千尋の隣の女の子が、机を隣り合わせに近付けようとしてくれなかったから、千尋が彼女の机まで自分の机を近付けた。みんな少しずつ机を寄せ合ってくっつけている中で、千尋の机だけは列の中で歪に引っ込んでいて、反対に彼女の机は列の並びから少しはみ出していた。その歪みが直されることはなかった。
だんだんと、千尋の方からも人を避けるようになった。必要最低限のやり取りのために話しかけられて、それには素っ気なく応える。昼休みは文庫本を開いて、物語の世界に埋もれて外の世界から自分を切り離す。そうしていると、周りの方が幼稚で馬鹿馬鹿しく思えたから、楽だった。まだそんな遊びが楽しいの? と、クラスメイトたちを心の中で馬鹿にすることさえできた。
だから、大丈夫だ。そう思っていたし、いつか学校という枠が外されたら嫌気の差すような幼稚さとは離別できるから、現状を変えようともしていない。それなのに、大丈夫なわけがないと踏み込んで、事を荒立てようとする人が現れてしまった。
――俺が大事なんじゃなくて、自分の子供が人から嫌われてるのが恥ずかしいんだ。
そうとしか思えなかった。大事なら、大丈夫という言葉を信じてくれたっていいはずなのに。どうして上手くやってきた千尋のことを信用しないで、自分たちの手で何とかしてやらないと、と息巻くのだろう。大人が嫌になる。
吐く息がとうに白さを失った頃、千尋は学校に着いた。今は冬休みで、学校に来なければならないわけではない。ただ、図書室の開放という名目で図書委員と利用を希望する生徒は中に入っていいことになっていたし、部活動で校舎を使う生徒も少なくなかった。
二重のガラス戸で風雪を防ぐ昇降口に入れば、廊下をランニングする運動部の列が目の前を通り過ぎる。木造校舎の床が軋むが、補修工事が四年前に終わっているらしい。穴があくなんてことはないはずだった。
下駄箱の前にある簀の子にはスポーツバッグが並べられていて、時折開きっぱなしになっている口からラッピングされたプレゼントが覗いている。いま校内を走り回っている彼らが、この後に誰かの家でクリスマス会をするということを千尋は知っていた。冬休みに入る直前、彼らがクラスで楽しげに話し合っているのが常だったのだ。
東北地方の山地にある丸い湖。その一方を山に、それ以外を街に囲まれた一帯を雪車浦と呼んだ。街といっても小さなもので、人口は二千に満たない。周囲にはやはり山地が広がるので、他所からは切り離されたようなほぼ円形の町だった。
一日に数本のバスは、朝と、もう少し遅い朝、昼、夕方くらいしか走らない。そして夜になると、夜勤の運転手になって運転代行あるいはタクシーのような仕事もすることもある。だから時折、特に朝は車内に酒臭さを感じることがあった。気のせいかもしれないが、それでも千尋はなんとなく、昨日の夜ここには酔っ払いたちがいたのだと思っていた。
だが、千尋がバスの時刻を待たずに遠く離れた中学――彼はここに通っている――へと歩き出したのは、酔っ払いの残り香に嫌気が差したからではない。ただ何となく、誰かに頼りたくなかった。バスの運転手はそれが仕事だとしても、今だけは大人の世話にはなりたくないと意固地になっている。
雪の積もった道は坂もあれば、曲がり角もある。車ならまだしも、自転車を使うには危険で、冬に自転車に乗る人はほとんどいない。だから、コートのポケットに両手を突っ込んで、閉めきった襟元に鼻先まで埋めて、千尋は歩いた。
朝早くに家を出たので、学校の開く時間には着くだろう。軽い地吹雪で視界の悪い中をどこまでも歩く子供の姿は奇異に映るだろうから、少しだけ気まずい気持ちで身を隠すように進む。ふと顔を上げてはさざめく湖面を見るのを心の支えにしていた。もう少し晴れていたら、どれだけ良かったか。
どうして子供というものは、大人の目の届く中にいなければならなくて、彼らの心配という名の支配に掛かってしまうと「大丈夫」という言葉さえ信じてもらえなくなるのだろう。昨晩も千尋はこれを嫌と言うほど実感して、両親と声を荒げて言い合った。
――「千尋、学校でいじめられてるんでしょう」
強張った母の声に、顔が熱くなったのを未だに覚えている。忘れたくても忘れられなかった。母はすぐに、千尋は悪くないのだと言葉を続けた。父に相談して、学校に相談して、PTAでも対応してもらおう。気付いてあげられなくてごめん、と矢継ぎ早に言う。
確かに千尋は、中学に入るより少し前からクラスメイトたちと折り合いが悪かった。きっかけは本当に些細で、誰でもその標的になり得たような出来事で、それでも暴力を振るわれたわけではない。陰口は言われたかもしれないが、何を言われていても千尋はその中身を知らない。ただ、居ない者として扱われていたことは確かだ。
昼休み、体育館で遊ぶときに誘ってもらえなかった。千尋にだけ給食のデザートが配られなかったが、それはゴミ箱の奥底に隠されていた。ペアワークの時に千尋の隣の女の子が、机を隣り合わせに近付けようとしてくれなかったから、千尋が彼女の机まで自分の机を近付けた。みんな少しずつ机を寄せ合ってくっつけている中で、千尋の机だけは列の中で歪に引っ込んでいて、反対に彼女の机は列の並びから少しはみ出していた。その歪みが直されることはなかった。
だんだんと、千尋の方からも人を避けるようになった。必要最低限のやり取りのために話しかけられて、それには素っ気なく応える。昼休みは文庫本を開いて、物語の世界に埋もれて外の世界から自分を切り離す。そうしていると、周りの方が幼稚で馬鹿馬鹿しく思えたから、楽だった。まだそんな遊びが楽しいの? と、クラスメイトたちを心の中で馬鹿にすることさえできた。
だから、大丈夫だ。そう思っていたし、いつか学校という枠が外されたら嫌気の差すような幼稚さとは離別できるから、現状を変えようともしていない。それなのに、大丈夫なわけがないと踏み込んで、事を荒立てようとする人が現れてしまった。
――俺が大事なんじゃなくて、自分の子供が人から嫌われてるのが恥ずかしいんだ。
そうとしか思えなかった。大事なら、大丈夫という言葉を信じてくれたっていいはずなのに。どうして上手くやってきた千尋のことを信用しないで、自分たちの手で何とかしてやらないと、と息巻くのだろう。大人が嫌になる。
吐く息がとうに白さを失った頃、千尋は学校に着いた。今は冬休みで、学校に来なければならないわけではない。ただ、図書室の開放という名目で図書委員と利用を希望する生徒は中に入っていいことになっていたし、部活動で校舎を使う生徒も少なくなかった。
二重のガラス戸で風雪を防ぐ昇降口に入れば、廊下をランニングする運動部の列が目の前を通り過ぎる。木造校舎の床が軋むが、補修工事が四年前に終わっているらしい。穴があくなんてことはないはずだった。
下駄箱の前にある簀の子にはスポーツバッグが並べられていて、時折開きっぱなしになっている口からラッピングされたプレゼントが覗いている。いま校内を走り回っている彼らが、この後に誰かの家でクリスマス会をするということを千尋は知っていた。冬休みに入る直前、彼らがクラスで楽しげに話し合っているのが常だったのだ。